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INAX REPORT

アーカイブ特集1

No.178 

生き続ける建築―完 吉田鉄郎|Tetsuro Yoshida

[本論] 南 一誠
[作品] 旧・福野郵便局の離れ|旧・馬場氏烏山別邸|大阪中央郵便局
[Documents File] ドローイング・人と作品
 吉田鉄郎は明治27年(1894)、富山県福野町に生まれました。大正8年(1919)に東京帝国大学を卒業、逓信省営繕課に入省します。同年、吉田芳枝と結婚し吉田家の養嫡子になります。吉田は逓信省時代、「東京中央郵便局」(1931)や「大阪中央郵便局」(1939)など数多くの庁舎建築を世に送り出します。柱・梁のプロポーションを重視した設計手法、ディテールを追求する姿勢は、逓信建築の真骨頂として継承されていきます。逓信建築の礎を築いた吉田は、戦争という不運から昭和19年(1944)に逓信省を退官します。そして、将来の建築界を担う後進に望みを託し、昭和21年(1946)、日本大学教授となり、教育に情熱を注ぎます。その一方で、堪能だった語学を活かし、ドイツ語で3冊の書籍を出版し日本建築や文化を海外に紹介します。しかし、志半ばで脳腫瘍に冒され、吉田の遺作となった『スウェーデンの建築家』は、口述で書籍にしたという壮絶な記録もあります。日本の近代建築を開化させた吉田鉄郎は、病に打ち勝つことができず、昭和31年(1956)、62歳で生涯を閉じます。
 本特集では代表作の中から「旧・福野郵便局の離れ」、「旧・馬場氏烏山別邸」、「大阪中央郵便局」を紹介します。

No.177 

生き続ける建築―11 蔵田周忠| Chikatada Kurata

[本論] 大川三雄
[作品]三輪邸(現・O邸)|米川邸(現・野田邸)|勝野邸
[Documents File] ドローイング・人と作品
 蔵田周忠は明治28年(1895)、山口県萩市に生まれました。大正2年(1913)に工手学校(現・工学院大学)建築科を卒業、三橋四郎建築事務所に入所します。曾禰中條建築事務所、関根建築事務所を経て昭和6年(1931)に独立。建築を多方向から眺め、建築設計だけにとどまらず、建築ジャーナズム、編集、家具のデザインや民家研究とさまざまな分野に携わります。“生活をデザインする”という信念を貫き、建築界に大きな足跡を残した建築家・蔵田周忠は昭和41年(1966)、71歳でこの世を去りました。
 本誌では代表作の中から「三輪邸(現・O邸)」、「米川邸(現・野田邸)」、「勝野邸」を紹介します。

No.176 

生き続ける建築―10 松田軍平|Gumpei Matsuda

[本論] 丸山雅子
[作品]旧・三井高修伊豆別邸|石橋徳次郎邸|旧・三井物産門司支店
[Documents File] ドローイング・人と作品
 松田軍平は明治27年(1894)、福岡で生まれました。大正7年(1918)、名古屋高等学校建築科を卒業。2年間清水組で実務経験を積み、大正10年(1921)にアメリカコーネル大学建築科3学年に入学します。大学を首席で卒業後、ニューヨークのトローブリッジ&リビングストン建築事務所で「三井本館」(1929)の設計に、そして帰国後は工事監理に携わります。昭和6年(1931)松田建築事務所を設立し、その11年後の昭和17年(1942)には、事務所設立当初から共に歩んできた平田重雄をパートナーに迎え、松田平田設計事務所に改称します。
 後年、建築家(アーキテクト)の地位向上を図り、職能確立に力を注いだ松田は、昭和56年(1981)、86歳の生涯を閉じます。
 本誌では代表作の中から「旧・三井高修伊豆別邸」、「石橋徳次郎邸」、「旧・三井物産門司支店」を紹介します。

No.175 

生き続ける建築―9 保岡勝也|Katsuya Yasuoka

[本論] 内田青蔵
[作品] 三菱合資会社若松支店|三菱合資会社長崎支店唐津出張所|山崎別邸
[Documents File] ドローイング・人と作品
 保岡勝也は明治10年(1877)、東京で生まれました。明治33年(1900)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、三菱合資会社に入社。曾禰達蔵の後任としてその手腕をふるい、赤れんが時代の丸の内オフィス街を完成させます。「三菱合資会社14号館」(1913)から「21号館」では、日本初の鉄筋コンクリート構造を積極的に採用します。明治45年(1912)に退職、大正2年(1913)に保岡勝也事務所を設立し、“住宅作家”として中流層の中小規模住宅を中心に設計します。
 晩年はいち早く茶室建築に着目し、研究家として多くの著書を残しています。新しいタイプの建築家像の存在を示した保岡は、昭和17年(1942)、65歳でこの世を去ります。
 本誌では代表作の中から「三菱合資会社若松支店」、「三菱合資会社長崎支店唐津出張所」、「山崎別邸」を紹介します。

No.174 

生き続ける建築―8 山田 守|Mamoru Yamada

[本論] 岩岡竜夫
[作品] 山田邸|長沢浄水場|東海大学代々木校舎1号館・2号館
[Documents File] ドローイング・人と作品

 山田守は明治27年(1984)、岐阜県羽島郡(現・羽島市)の豪農の家に生まれます。東京帝国大学では分離派建築会を結成。明治の様式建築から分離し、新たな建築造形を目指します。卒業後入省した逓信省では分離派として多くの作品を残しました。その後、海外視察を経て、自らの建築事務所を設立します。プロトタイプの考案、更には都市へと目を向け、風景の一部として造形的に建築を捉え、設計することに挑戦します。2度目の海外視察へ赴き更なる意欲を燃やしますが、帰国後、病に倒れます。建築造形へ挑戦し続けた山田守は昭和41年(1966)、72歳の生涯を閉じます。
 本号では代表作の中から「山田邸」、「長沢浄水場」、「東海大学代々木校舎1号館・2号館」を紹介しています。

No.173 

生き続ける建築―7 藤井厚二|Koji Fujii

[本論] 松隈 章
[作品]八木市蔵邸|村山龍平邸(和館)|聴竹居・聴竹居内閑室
[Documents File] ドローイング・人と作品

 藤井厚二は明治12年(1888)、現在の広島県福山市に生まれました。大正2年(1913)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、その後6年間、合資会社竹中工務店に勤務します。退社後は1年間欧米に渡り、モダニズムデザインや最先端の建築設備に触れ感銘を受けます。帰国後は日本の気候風土に適した住宅を科学的な視点で検証し、自邸での実験を通して環境工学を確立しました。また、日本の住宅を基調とした家具、照明などのインテリアの他に、書籍の装丁などのデザインにも携わりました。住宅の在り方について、生涯をかけて研究・設計に取り組み、その実績は日本にとどまらず世界に向けて発信されました。
 本誌では代表作の中から「八木市蔵邸」、「村山龍平邸(和館)」、「聴竹居・聴竹居内閑室」を紹介しています。

No.172 

生き続ける建築―6 内田祥三|Yoshikazu Uchida

[本論] 速水清孝
[作品] 東京大学図書館|東京大学法文経一号館|東方文化学院東京研究所|東京高等農林
[Documents File] ドローイング・人と作品

 内田祥三は明治18年(1885)東京深川で生まれ、明治37年(1904)に東京帝国大学工科大学建築学科に入学します。卒業後は3年ほど三菱合資で現場を経験し、その後大学院に戻って鉄筋コンクリートの構造の研究に取り組みます。以後は、教育者として生涯東大に身をおき多くの実績を残しました。東京大学総長にして建築界で4人目の文化勲章受章者でもあります。
 本誌では代表作の中から「東京大学図書館」、「東京大学法文経一号館」、「東方文化学院東京研究所」、「東京高等農林」を紹介しています。

No.171 

生き続ける建築―5 本野精吾|Seigo Motono

[本論] 笠原一人
[作品] 西陣織物館|本野精吾自邸|京都高等工芸学校本館|鶴巻鶴一邸
[Documents File] ドローイング・人と作品

 本野精吾は明治15年(1882)東京に生まれ、東京帝国大学建築科に進学。卒業後は、三菱合資会社地所部(現・三菱地所)に勤務しますが、武田五一の招聘により京都高等工芸学校図案科教授に着任し、プロフェッサーアーキテクトに転身します。そして家具のデザインから舞台デザイン、グラフィックデザイン、服飾デザインなど、さまざまな分野で実績を残しますが、建築家としては寡作で、生涯で10作品余りしか手掛けませんでした。
 しかし、京都高等工芸学校着任早々の明治42年(1909)、“図案学研究”のためヨーロッパに留学し、ベルリンでP.ベーレンスを始め、建築やデザインのアバンギャルドな活動に多大な影響を受けて帰国します。
 帰国後の作品にはその影響が表れており、日本におけるモダニズム建築の先駆けの一人と称される由縁はそこにあります。本誌では、現存する建築作品4点「西陣織物館」、「鶴巻鶴一邸」、「本野精吾自邸」、「京都高等工芸学校本館」を紹介しています。

No.170 

生き続ける建築―4 田辺淳吉|Junkichi Tanabe

[本論] 松波秀子
[作品] 青淵文庫|晩香廬|高岡共立銀行|誠之堂
[Documents File] ドローイング・人と作品

 明治12年(1879)、東京本郷の西片で生まれた田辺淳吉は、東京帝国大学建築学科卒業後、清水満之助店(現・清水建設)に入店し、銀行や事務所建築を手掛けます。明治42年(1909)、渋沢栄一を代表とする渡米実業団に随行し、その後、欧州に渡り、セセッション建築に強い感銘を受けて帰国します。清水組技師長となり、後進の育成・指導に励んでいた中で、建築家・田辺の本領を発揮できる「誠之堂」と「晩香廬」の設計が任されます。大正9年(1920)に退社、恩師・中村達太郎と「中村田邊建築事務所」を設立しますが、関東大震災によって清水組で手掛けた多くの作品が被災し、その復旧のために多忙を極めます。大正15年(1926)、過労のため、47年の短い生涯を閉じました。
 本誌では「青淵文庫」、「晩香廬」、「高岡共立銀行」、「誠之堂」を紹介しています。

No.169 

生き続ける建築―3 武田五一|Goichi Takeda

[本論] 石田潤一郎
[作品] 求道会館|名和昆虫研究所記念昆虫館・名和昆虫博物館|藤山雷太邸
[Documents File] ドローイング・人と作品

 武田五一は明治5年、広島県福山町に福山藩主・福島直行と八重の長男として生まれます。姉4人の後の待ちに待った男子誕生で「五大州一」への願いを込めて五一と命名されたと言われています。父親は極めて先見の明のあった人で、明治維新後、警察官、検事、判事として神戸、岐阜、高知、広島などで活躍しますが、五一も父親の赴任地を転々として幼少時を過ごします。そして父の影響を受けて絵が好きだったことから帝国大学造家学科に進み、大学院を経て帝国大学の助教授に就きます。翌年、京都に新設される高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の図案科教授に抜擢されてヨーロッパに留学し、明治34年、五一29才でイギリス暮らしが始まります。その後も、五一は生涯で何度も海外生活や海外出張を体験しますが、いち早く外国の感覚を咀嚼、吸収し、その影響を色濃く反映した作品を発表します。そして教育者、建築家、デザイナーとかなり多岐にわたって大きな実績を残しました。
 本誌では代表作の中から「求道会館」、「名和昆虫研究所記念昆虫館・名和昆虫博物館」、「藤山雷太邸」を紹介しています。

No.168 

生き続ける建築―2 伊東忠太|Chuta Ito

[本論] 倉方俊輔
[作品] 震災記念堂|大倉集古館|築地本願寺
[Documents File] ドローイング・人と作品

 伊東忠太は、建築史家、理論家でありながら建築家としても多くの作品を残しています。後に学士院会員、芸術院会員に選ばれた他、晩年には建築界初の文化勲章を受賞しています。まず、法隆寺とギリシャ神殿を比較して論じた「法隆寺建築論」によって建築史家としての第一歩を記します。日本初です。また 「アーキテクチユール」の訳をめぐって “造家”から“建築”への改名を主張し、それを実現させたのも忠太です。1894年、忠太27才の時です。そして、建築家としても大いに活躍しました。社寺から近代建築、そして妖怪や動物の装飾に至るまで、幅広いデザインをこなしています。この多方面にわたる活躍ぶりは “大天才”と称されることもありました。
 本誌で紹介している作品は、「震災記念堂」、「大倉集古館」、「築地本願寺」です。

No.167 

生き続ける建築―1 曾禰達蔵|Tatsuzo Sone

[本論] 平井ゆか
[作品] 慶應義塾創立五十年記念図書館|小笠原長幹伯爵邸|三井銀行 小樽支店
[Documents File] ドローイング・人と作品

曾禰達蔵は江戸に生まれ、明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜き、昭和12年(85才)まで現役で活躍した建築家です。辰野金吾と共に工部大学校造家学科でコンドルに西洋建築を学び、明治12年に第1回生として卒業。その後、三菱で華々しい活躍をした後に独立し、民間で初めての設計事務所「曾禰中條設計事務所」を開設しました。そしてオフィスビル、銀行、学校、会館、病院など、最先端の技術を要する工場から住宅まで、さまざまな建築を手がけ、約230の作品を残しています。その中から、今号で紹介している作品は「慶応義塾創立五十年記念図書館(重文)」、「小笠原長幹伯爵邸(修復・改修)」、「三井銀行 小樽支店」です。

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