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INAX REPORT

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特集1

伊東忠太

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挑戦の建築家

築地本願寺
伊東忠太

 伊東忠太は慶応3年(1867)、山形県米沢で生まれました。F.L.ライトや夏目漱石と同年生まれとは奇遇です。間もなく東京に移り住み、番町小学校〜東大まで、今風にいえばエリートコースを進みます。子供の頃から絵が得意で、本当は美術家になりたかったところ、「男児たるもの国家のためにつくすことを考えずに美術家になろうとはふがいない」と父親の猛反対に合い、美術に関係がありそうな帝国大学工科造家学科に進学。卒業後はそのまま大学院に進み、有名な「法隆寺建築論」によって法隆寺とギリシャ神殿を比較して論じ、建築史家誕生を世に知らしめました。また、理論家としても大活躍します。特筆すべきは、「アーキテクチュール」の本義を説き、“造家”から“建築”へ改名を提案・実現させたこと。「造家学会」から「建築学会」に改名する契機をつくったのは、実は伊藤忠太だったのです。
 一方、建築家としても大活躍し、たくさんの作品を残しています。「平安神宮」、「明治神宮」を始めとする神宮建築の他、仏教関係の建築、「祇園閣」や「一橋大学兼松講堂」などの近代建築に至るまで、かなり幅広いデザインをこなしました。中でも、随所に登場する妖怪や動物は伊東忠太ならではの個性が光る装飾・デザインで、忠太建築の大きな特徴です。後には学士院会員、芸術院会員に選ばれ、また建築界初の文化勲章を受賞しました。本誌で紹介している作品は、「震災記念堂」、「大倉集古館」、「築地本願寺」です。

写真上:

「築地本願寺」

 忠太の最大規模の代表作です。忠太は留学の最中に西本願寺22世宗主・大谷光瑞と出会い、明治末に5つの設計依頼を受けますが、実現したのは「築地本願寺」のみ。実に依頼から25年後に実現した作品です。
中央の屋根はチャイティア窓、建物の両端の鐘楼はストゥーパをモチーフにするなど、インド建築の要素が多く採り入れられています。また忠太建築には階段の途中には猿、階段の親柱には象、入口には柱と一体化した獅子など、さまざまな動物彫刻が潜んでいます。

震災記念堂(現・東京都慰霊堂)

「震災記念堂(現・東京都慰霊堂)」

 忠太の内なる課題、「世界各地の建築様式を組み合わせ、今までにない建築を創造する」を地で行ったのが東京・両国の「震災記念堂」です。正面外観は大きな唐破風を持つため和風に見えますが、背後の棟は中国風、内部の構成はバシリカ風と、忠太特有の様式の折衷が見事に実現されています。しかし、それらが単なる表面的な様式のパッチワークにとどまっていないところが、忠太建築の魅力です。

大倉集古館

「大倉集古館」

 実業家・大倉喜八郎の邸内につくられた私的美術館の第一号となった東京・虎ノ門の「大倉集古館」。もともとは住宅として計画されたと思われます。大倉は中国大陸への進出に積極的であり、東洋美術を好んでいましたが、忠太も研究テーマとして中国と関わりが深かったのです。そういう背景から、創設者・収集品・建築が一体となった「大倉集古館」が生まれました。
 東洋美術の収集品に合わせ、内外ともに曲線の使い方や各地のデザイン様式が織り交ぜられ、中国風のデザインでまとめられています。インテリアの展示ケースや長椅子なども、伊東忠太のデザインです。

Documents File
Documents File

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 記録魔の忠太が持ち歩いたフィールドノートは74冊を数え、横長型の手帖をはじめ、膨大な量のノートが現存しています。そこには、建築ディテールの案から戯画風の旅行地図、ヨーロッパ旅行中の船内の装飾など、幅広い内容のスケッチが残されています。また、建築では満たされなかった創造力を形にしたのでは…といわれる忠太オリジナルデザインの妖怪の図案集には、ユーモラスで見ごたえのある造形がいっぱいです。そして、当時の指導教官・辰野金吾先生が95点をつけたという卒業設計も紹介しています。

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