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対談
宮内 1945年、僕が目にした東京大空襲の焼け跡、廃墟というのは原風景なんです。建築ジャーナリズムの原点がそこにある、と僕は言わざるを得ない。このイメージを何とか今の世代の人たちと共有したいという願いがずっとあるんですが、非常に難しい。同世代だって見ないヤツもいたし、見たって忘れているヤツもいっぱいいるわけですから、必ずしも若い人たちの問題じゃない。しかし、これからの建築、都市、街の佇まいをどうイマジネーションするかを考える時に、僕は、廃墟に一度、立ち返らないといけないと思っているんです。そして、そのことを共有化したい。
内藤 3月10日と5月25日の東京大空襲ですね。
宮内 そうです。5月25日のB29の山手の絨緞爆撃の日、僕の高等学校の友人が焼夷弾の直撃を背中に受けて死んだんです。翌朝、その知らせを受けて、当時、住んでいた東玉川から、青山の高樹町まで歩いて行ったわけですよ。歩く以外に手がなかった。そして焼け残りの材木を友達みんなで集めて、それを組んで荼毘に付した。その時の色と臭いが忘れられない。そして途中で見た渋谷、表参道、青山一帯の焼け跡には、まだ火がくすぶって残っていた。木造家屋は全部焼け落ちて、小さなビルは外側が焼け焦げて、中はがらんどうになっていた。遮るものが何もなくて、非常に無残な光景がずっと続いていたんです。それをまざまざと見たわけです。その焼け野原の遥か西の空に、富士山が真っ白い雪を頂いて、近々と見えたんですよ。しかし、イマジネーションの話に戻りますと、確かに"廃墟"、"焼け跡"、"焦土"は、ものとしては何もない無残な状態だけど、反面、そこにはどんな絵も描けるキャンバスというか、非常に大きなエネルギーを秘めていると思ったんです。
今、新宿の西の空は超高層で覆われていて富士山が見えない。僕のイメージの中では、あの超高層を全部ぶっつぶして、西空に富士山が近々と見えるイメージを描いて、その空間にどのような街をつくろうか、というイマジネーションを持つべきじゃないか、それが僕の一編集者としての提案なんですよ。それは『無頼』でもそうだし、今まで一貫して言ってきた。僕の中ではそれしかない。一体、建築家は何をしているのかということですよ。
序論・コラム
序論 建築評論家・松隈洋氏
コラム1 建築家・批評家・八束はじめ氏
コラム2 法政大学法学部 教授・五十嵐敬喜氏
作品は、「埼玉県立博物館(現・埼玉県立歴史と民俗の博物館)」、「世界平和記念聖堂」、「弘前市斎場」が掲載されています。
左写真上から:「埼玉県立博物館」、「世界平和記念堂」、「弘前市斎場」、「風声同人会(1978年4月、京都山科で同人作品を見学)(写真:田口寛二)」
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