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対談
内藤 『見えがくれする都市』が出版された1980年当時は、ちょっとかげりが見え始めた時期だとおっしゃっていましたけど、そういう中で、建築家である槇さんが東京を見てみようと思ったのは、どういうことなのでしょうか。東京というまちは、その時どういうふうに映っていたんですか?「結構、面白いじゃないか」という感じですか、それとも「こんなんじゃ、ちょっとまずい」という感じですか。
槇 僕は常に「面白いじゃないか」という気持と「これじゃあまずいじゃないか」という気持があるんです。これは時代によって変わっていくものではなくて、常に意識の中で並列してあるようなものだと思うんです。今でも面白いと思っているし、こんなことではまずいとも思っている。それはなぜかというと、僕自身が東京生まれだからでしょうね。同時に東京で生活し、仕事もしている。これはほとんど運命的で、急に「明後日からロンドンに住みなさい」というような外的要因もない。自分としては、これからもここに住み続けるし、仕事もし続けるだろう。例えば僕の世代では、郷里のある建築家がたくさんいました。菊竹(清訓)さん、磯崎さんが九州、黒川(紀章)さんは名古屋、大高(正人)さんは福島と、いろんな人がいろんなかたちで地方から来て、東京で仕事を始めた時代なんです。その中で、僕は東京生まれですから東京が郷里みたいなもので、「自分の郷里をどういうふうに見るか」と考えてもおかしくない。
内藤 この本にも、港区の三田界隈での子どもの頃の体験を書かれていますね。
槇 それはやっぱりあるんですよ。それと僕は奥野健男の『文学における原風景』が非常にショッキングだったわけです。なぜかというと、普通の人が潜在意識として持ちながら共有してきた風景について、一人の文学者が克明に書いている。われわれ建築家にとってはとても衝撃的でした。
内藤 三島由紀夫とも親交が深かった文芸評論家の奥野健男さんですね。
槇 そうです。彼はもう亡くなられましたけど、僕と同じジェネレーションだったんです。彼はどこに住んでいたかというと、ちょうど代官山に近い恵比寿側で、そこからよくエビスビールの、先がちょんと曲がった4本の煙突が見えたんですね。今の恵比寿ガーデンプレイスの場所ですね。
内藤 子どもの頃は、恵比寿から五反田辺りにお住まいだったんですよね。
槇 そうです。ですから、ちょうど同じ時期に、山手線の線路を境にしてこっち側と向こう側にいて、同じような風景を共有していたと思うんです。それがある種の同意というか、親近感を持つきっかけになっていたと思います。『記憶の形象』に書いてありますが、当時の山の手は緑が深くて茶色の塀があって、建物も木造が基本的なんです。商店街に行けば、モルタルの典型的な商店が並んでいる風景だった。そして原っぱは至るところにありまして、われわれ子どもの格好の遊び場だった。いつもそこで野球をやったりフットボールをして遊んでいた。それは奥野さんの原風景でもあるわけですが、奥野さんはその原っぱにあった小さな祠や石仏、石碑を通して土俗信仰の影が色濃く漂っていたことも指摘しているんです。そして原っぱは、都市の中で開発が遅れた単なる空き地ではなく、そこには神聖な禁忌空間もあったというわけです。
序論・コラム
序論 建築家・早稲田大学 教授・同大学芸術学校 校長/鈴木了二氏
コラム1 建築家・デザイナー/矢萩喜從郎氏
コラム2 作家・地域誌編集者/森 まゆみ氏
左写真上から:「名古屋大学豊田講堂」、「SPIRAL」、「風の丘葬斎場」(写真:北嶋俊治)、「ヒルサイドテラス」(写真:槇総合計画事務所)
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