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INAX REPORT

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特集2

『建築の滅亡』 川添 登

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文明論をもって「滅亡」を大胆に予見

川添登氏×内藤廣氏
建築の滅亡

 「時代をつくった本」をテーマに、建築家・内藤廣氏が著者をゲストに迎え対談するシリーズ、今回は『建築の滅亡』です。これを書くに至った経緯、メッセージしたかったことは何か…など、著者・川添登氏との2時間の対談です。
 終戦間際に徴兵され、宮崎県で終戦を迎えた川添氏は、その後、早稲田大学に入学。学生時代はロシア文学者でありマルクス主義者であった松尾隆先生と、異才の建築学者・今和次郎先生に心酔し、学生運動にのめり込みます。卒業後は新建築社に入社、『新建築』を通して、“伝統論争”を仕掛けるなどして建築界を揺さぶり、また、建築評論や作家論など活発な編集活動を繰り広げます。更に1960年には世界デザイン会議を成功させ、世にメタボリズムを送り出すなど、その功績は華々しいものでした。対談では他に、長年魅了され続けている伊勢神宮や、新建築時代から付き合いのある丹下健三氏や白井晟一氏との関係など、川添氏を突き動かした背景に内藤氏が迫ります。

『建築の滅亡』は1960年、現代思潮社から発刊されています。

メタボリズム1960―都市への提案
香川県庁舎
伊勢神宮
善照寺本堂

対談

内藤  大学の頃から新建築社にアルバイトに行かれていた?
川添  早稲田の明石さんの紹介で、新建築社編集部でアルバイトしていました。1年か半年くらい。
内藤  入社のエピソードは、『思い出の記』で面白く読ませていただきました(笑)。「新建築社に入社早々、私は『くび』になった」…というくだりです。卒業論文や卒業設計が忙しかったために長期に休んで、卒論を仕上げてから出社してみると、どうも変だ。で、編集長の三輪(正弘)さんから、「社長は川添を雇うつもりはない。あいつはクビだ、と言われた」という話だったようですね。
川添  出社したら様子がおかしいんです。社長に「こんにちは」と言ったけど返事もない。「もう来ないと思っていたから、新しく雇う別の人を決めてしまった…」と、三輪さんから帰りがけに打ち明けられたんです。びっくりして「僕はまだ聞いていない。社長のところへいって直接聞いてくる」と言って、当時、新建築社の2階に住んでいた吉岡(保五郎)社長を訪ね、いささか出任せ気味だったんですが、「休んでいる間、『新建築』の編集についていろいろ考えてみた。分からないところ、判断のつきかねるところがいろいろあるから教えてほしい」という話を始めたんです。さすが吉岡社長は数十年間、雑誌で鍛え上げた人物ですから、理路整然と答えるんですね。私も必死でしたから、かなり雄弁にしゃべった。だんだん調子づいて、とうとう将来の抱負にまで話が及んで、帰ったのは12時過ぎなんです。「失礼します」と帰る私に、社長は「明日からしっかりやってくれたまえ」と言ったんです。こうして私のクビはつながったというわけです。
内藤  吉岡さんはジャーナリストとして勘の良い方だったんでしょうね。
川添  勘は良いですね。それと、筋の分かる人なんですよ。気骨があった。
内藤  そういう意味で川添さんと相性が良かった。
川添  そう。だから僕は『新建築』で勝手なことができたんです。
内藤  吉岡さんはもはや伝説上の人物ですね。ただ、川添さんは「当時の建築ジャーナリズムが男子の一生の仕事に価するとは、とうてい思えなかった」と書いていらっしゃいますね。
川添  そうそう。だから男子の一生の仕事に値するものにするためにはメ建築ジャーナリズムの確立だモと思ったわけですよ。それで、読者とともに考える雑誌づくりをやろうと思った。具体的には投稿欄QQQQにつながっていくんです。
内藤  国立国会図書館コンペ規定を巡る建築著作権運動は、吉阪隆正がこのQQQQ欄へ書いた投書がもとになっていますね。
川添  そうです。それから、建築批評と建築評論の確立もやったわけです。


序論・コラム

 序論 建築史家・建築批評家/五十嵐太郎氏
 コラム1 東京工業大学大学院准教授/塚本由晴氏
 コラム2 評論家/井上章一氏
 
 左写真上から:『メタボリズム1960―都市への提案』、「香川県庁舎」、「伊勢神宮」(写真:神宮司庁)、「善照寺本堂」

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