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INAX REPORT

アーカイブ特集1

No.190 

続・生き続ける建築―12 ジョサイア・コンドル

[本論]鈴木博之
[作品]岩崎久彌邸|三井家倶楽部|古河虎之助邸
[ドキュメント・ファイル]
 ジョサイア・コンドルは、お雇い外国人として来日し、日本の近代建築黎明期を牽引した建築家です。教職に就いた工部大学校造家学科では、歴史から計画、構造までを教え、実施設計には学生を参加させるなど、教養と実技を兼ねた授業を実践しました。教え子には、辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵といった日本建築界の礎を築いた重鎮たちが名を連ね、日本の近代建築の発展に飛躍的な成果を上げたと言われています。一方、日本政府の委嘱として、「鹿鳴館」や東京大学の校舎なども設計しています。1888年、36歳で教職を辞し、ただちに設計事務所を設立し、設計活動に専念します。そして三菱や三井など財閥関係の設計に多く携わり、晩年は、邸宅建築家としての不動の地位を築きました。
 日本に建てられる西洋建築に日本らしさを取り入れようと努力し、日本画や造園、生け花など、日本文化を熱心に探求したジョサイア・コンドル。そんな彼の人間性を見据えながら、3作品を中心にコンドル建築の本質に迫ります。

No.189 

続・生き続ける建築―11 木子七郎

[本論]山形政昭
[作品]新田長次郎別荘|久松定謨伯爵別邸|松山大学温山記念会館
[ドキュメント・ファイル]
 木子七郎は、宮廷建築家として名を馳せた名門・木子家に生まれ、自らも建築を志し、黎明期の大阪で和洋を巧みにこなす建築家として活躍しました。木子は東大建築科を卒業後、大林組に入社し、頭角を現します。わずか1年で、新田帯革製造所(現・ニッタ株式会社)の建築顧問となり、大正2年(1913)には、社主・新田長次郎の長女・カツと結婚。同年、木子七郎建築事務所を開設し、新田家関連の仕事を始め、銀行や庁舎など、多くの建物を設計しました。なかでも「新田長次郎別荘(現・琴ノ浦温山荘園 主屋)」は、木子の和風建築においての技量を存分に発揮した作品で、平成22年(2010)に重要文化財に指定されました。その他、フランス・ルネサンス・スタイルの「久松定謨伯爵別邸(現・萬翠荘)」、スパニッシュ・スタイルの「松山大学温山記念会館(旧・新田利國邸)」なども、上質な様式建築として広く知られています。これらの3作品を中心に、氏の人間性を見据えながら木子建築の本質を探りました。

No.188 

続・生き続ける建築―10 渡邊 節

[本論]坂本勝比古
[作品]旧大阪商船神戸支店|綿業会館|乾邸
[ドキュメント・ファイル]
 渡辺節は、デザイン力に優れ、さらに先端の技術を取り入れた建築を設計し、建築界での地位を不動のものにした建築家です。大正5年(1916)、大阪と東京に事務所を開設。大阪は好景気に沸いていたため、紡績・銀行関係の仕事に恵まれます。渡辺の建築人生の中で重要な出来事となるのが、その頃訪れた欧米視察で、アメリカ的合理主義を直に体験したことが、独自の建築スタイルを確立することにつながります。渡辺は、アメリカからテラコッタやプラスターを輸入して採用した、日本で初めての建築家といわれています。それと並行して彼の作風には、古典を踏襲した多様な様式を駆使する一面も見られます。加えて先進的な設備や施工面のコストダウンなど実質面での合理性を追求。それらの実績が徐々に関西実業家の信頼を獲得し、また、村野藤吾や須藤員雄を始め、優れたスタッフの奮闘によって、渡辺建築事務所は八面六臂の活躍だったといわれています。戦後は大阪府建築士会の初代会長を始め、関西建築界の団結・発展に務めた渡辺節。3作品を中心に、氏の人間性を見据えながら渡辺建築の本質に迫ります。

No.187 

続・生き続ける建築―9 中村與資平

[本論]西澤泰彦
[作品]浜松銀行集会所|豊橋市公会堂|静岡市庁舎
[ドキュメント・ファイル]
 中村與資平は、明治末期に朝鮮半島に渡り建築家として活躍し、晩年は生まれ故郷の浜松に戻って、子どもたちの教育に情熱を注ぎました。東京帝国大学建築学科を卒業後、辰野金吾の事務所に入所。第一銀行韓国総支店の設計を任され、韓国・ソウルへと出発します。これが中村と朝鮮半島を結ぶきっかけとなり、竣工後、朝鮮銀行の建築顧問の職を得たことで事務所を設立します。約10年にわたり朝鮮半島で設計活動を行いますが、事務所の焼失を機に活動拠点を東京に移すことを考え、帰国前に、ほぼ1年をかけて欧米の旅に出ます。帰国後、東京に事務所を開設。RC造の設計に取り組みながら、多くの作品を残します。晩年は戦争により浜松に疎開し、欧米視察中のドイツで子どもたちが楽しそうに勉強していた科学教育を日本の子どもたちにも学ばせたいという強い思いから、教育委員となり、ついには静岡県教育委員会副委員長を務めました。いち早く日本を離れ、朝鮮の地に活路を見い出した建築家・中村與資平の人間性を見据えながら、3作品を中心に中村建築の本質に迫ります。

No.186 

続・生き続ける建築―8 堀口捨己

[本論]藤岡洋保
[作品]八勝館みゆきの間|明治大学和泉第二校舎(大教室)|常滑陶芸研究所
[ドキュメント・ファイル]
 堀口捨己は、茶室や和風建築に造詣が深く、その独自の視点から日本建築を再発見した建築家です。彼は“数寄屋造り”を日本建築の真髄と位置づけ、ヨーロッパの近代建築に通ずる“普遍性”と“非相称重視の美学”を兼ね備えていると主張。ヨーロッパの動向に精通していた彼の新たな解釈は脚光を浴びます。一方、設計活動においては、論理性と現代性を重視した“強い表現”に取り組み、和風建築も現代建築と同一と捉え、その根底にある数寄屋造りを軸にした建築観や美学は、鉄筋コンクリート造であっても何ら変わることはなかったといいます。
 分離派建築会を結成し、大学在学中から異彩を放っていた堀口捨己。日本近代建築運動の先駆けになったことは歴史が証明しています。そんな彼の人間性を見据えながら、3作品を中心に堀口建築の本質に迫ります。

No.185 

続・生き続ける建築―7 高橋貞太郎

[本論]砂本文彦
[作品]学士会館|前田利為侯爵邸|川奈ホテル
[ドキュメント・ファイル]
 高橋貞太郎は、「帝国ホテル新館」を始め、「川奈ホテル」や「上高地ホテル」など、ホテル建築を得意とした建築家です。一方で、佐野利器の“四天王”のひとりとして知られ、東京帝大卒業時は、成績優秀につき恩賜の銀時計をもらっています。卒業後は佐野の命により、滝川鉄筋コンクリート工務所、内務省、宮内省、復興建築助成株式会社などに勤務し、昭和5年(1930)、帝国ホテル支配人の犬丸徹三との邂逅を得て独立。それを機に、ホテル建築の仕事に恵まれ、その道のスペシャリストとして名を馳せます。晩年は、犬丸の絶対的な信頼を得て、帝国ホテル本館の解体を伴った新本館の設計を委嘱され、世論の反対を受けながらも、ひたすら設計に精力を注ぎ込みました。
 組織の建築家として、また個人の建築家として、さまざまな要請に真摯に応え、設計に取り組んだという高橋貞太郎。彼の人間性を見据えながら、3作品を中心に高橋建築の本質に迫ります。

No.184 

続・生き続ける建築―6 ジェイ・ハーバート・モーガン

[本論]水沼淑子
[作品]ベリック邸|東北学院ラーハウザー記念礼拝堂|チャータード銀行神戸支店
[ドキュメント・ファイル]
 ジェイ・ハーバート・モーガンは、丸の内ビルディングなどを通して、日本の建設業近代化に貢献した建築家です。大正9年(1920)、アメリカ最大の建築施工会社・フラー会社の日本進出に伴い、51歳で来日。大規模ビルディングの建設に参画し、アメリカの先進的な施工技術を伝えるという大きな役割を果たします。すでにアメリカで豊富な経験を積み、歴史様式を自在に操る建築家として成熟していたモーガンは、フラー会社が撤退した後も日本にとどまり、大正11年(1922)、自身の設計事務所を立ち上げ、日本永住を決意します。日本での活躍は、横浜の外国人コミュニティにおける公共建築にとどまらず、住宅、学校・教会などのミッション建築を主体に、銀行や病院など、その作品は四国から東北にまでに及んでいます。
 晩年は、日本建築の素晴らしさに魅せられ、それを自らの作品に投影していったというジェイ・ハーバート・モーガン。彼の人間性を見据えながら、3作品を中心にモーガン建築の本質に迫ります。

No.183 

続・生き続ける建築―5 渡辺 仁

[本論]大川三雄
[作品]徳川義親侯爵邸|東京帝室博物館|原邦造邸
[ドキュメント・ファイル]
 渡辺仁は、時代の要請に従って巧みにデザインを使い分け、モダニズムへとつながる建築界の変革期を担った建築家です。大学卒業と同時に鉄道院に勤務しますが、5年後には逓信省に移り、本格的な設計活動を始めます。彼の名が建築界に広く知れ渡るきっかけとなったのは、逓信省での設計活動の傍ら積極的に参加したコンペでした。大正5年(1916)頃から応募し始め、歴史主義の習熟を見せた作品が多く残されています。大正9年(1920)には、渡辺仁建築工務所を開設し、しばらくして1年余りの欧米旅行に出発します。これを境に渡辺仁のデザインにはモダンな味が加わったといいます。帰国後は、さまざまな様式を自在に使いこなし、独自の作風をもつ建築をつくり、活躍しました。
 ゼセッションや表現派、日本趣味建築、モダニズムなどに精通し、果敢な挑戦を繰り返した渡辺仁の人間性を見据えながら、3作品を中心に渡辺仁建築の本質に迫ります。

No.182 

続・生き続ける建築―4 安井武雄

[本論]石田潤一郎
[作品]大阪倶楽部|日本橋野村ビル|大阪ガスビル
[ドキュメント・ファイル]
 安井武雄はエキゾチックな様式、アール・デコ風の近代性を巧みにバランスさせ、独自で多様なスタイルを展開した建築家です。他人の真似をするのが絶対に嫌だったという安井は、レンガ造の大規模建築をこなす能力が求められていた時代に、卒業設計であえて木造住宅を選び、周囲を驚かせたといいます。卒業後は南満州鉄道に入社し、10年間、中国で設計活動を行います。帰国後、西日本最大規模の建築事務所であった片岡建築事務所に入社、大正13年(1924)には安井武雄建築事務所を開設します。実業家・野村徳七らの支援を得て、オフィスビルなど数多くの作品を残しました。
 自分の個性を発揮し、時代をリードした安井武雄の人間性を見据えながら、3作品を中心に安井武雄建築の本質に迫ります。

No.181 

続・生き続ける建築―3 遠藤 新

[本論]井上祐一
[作品]甲子園ホテル|小宮一郎邸|目白ヶ丘教会
[ドキュメント・ファイル]
 遠藤新は、師であるフランク・ロイド・ライトの建築哲学・有機的建築を追求し、それをベースに、日本に根差した独自の建築を展開した建築家です。生誕120年を過ぎた今なお、日本ではライトと同一視されほど、遠藤の作品には師の面影が生きているのです。遠藤は、東京帝国大学在学中にライトの作品に触れ、衝撃を受けたといいます。そして、来日中だったライトと出会い、渡米します。ライトからは「エンドーサン」と呼ばれ信頼が厚く、帰国後は「帝国ホテル」の建設に携わり、有機的建築の神髄を深めました。遠藤新建築創作所を設立してからは、住宅や学校など数多くの作品を世に送り出し、そこには有機的建築の哲学を垣間見ることができます。
 生涯、ライトの教えを貫いた遠藤新の人間性を見据えながら、3作品を中心に遠藤新建築の本質に迫ります。

No.180 

続・生き続ける建築―2 鈴木禎次

[本論]瀬口哲夫
[作品]旧中埜家住宅|岡崎銀行本店|諸戸氏庭園本邸(主屋)洋室
[ドキュメント・ファイル]
 鈴木禎次は生涯を通して名古屋の発展に尽力した建築家です。当時、名古屋中心部には、禎次が設計した建築が44棟を数えました。それは、名古屋の都市において禎次の存在が大きかった証しであり、ひとりの建築家がひとつの都市にこれほど多くの建築を残した例は他にないと言われています。禎次は、帝国大学大学院卒業と同時に三井に就職し、36歳という若さで名古屋高等工業学校建築科教授、建築科長に就任します。これが名古屋との最初のつながりになります。教員生活の傍ら設計活動も行い、百貨店建築や銀行建築を得意とし、常に先端の技術を導入した建築をつくり活躍しました。
 地元経済界からの信頼が極めて厚く、名古屋に多くの足跡を残した鈴木禎次の人間性を見据えながら、3作品を中心に鈴木禎次建築の本質に迫ります。

No.179 

続・生き続ける建築―1 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

[本論]山形政昭
[作品]軽井沢ユニオンチャーチ|駒井家住宅[駒井卓・静江記念館]|横浜共立学園本館
[ドキュメント・ファイル]
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは明治13年(1880)にアメリカで生まれました。大学卒業の翌年、宣教活動を目的に英語教師として来日し、2年間の教員生活を滋賀県近江八幡で過ごします。その間、「八幡YMCA会館」の建設に携わり、やがて「京都YMCA会館」の建設にかかわったのをきっかけに、建築事務所を設立します。日本での活躍は華々しく、学校から教会、百貨店など、日本各地に数多くの建築を残しました。
 人徳が高く、人間的な魅力にもあふれていたヴォーリズの人間性を見据えながら、氏の3作品を中心に建築の神髄に迫ります。

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